かんそう室

見たり読んだり聴いたりしたものの感想を載せています。

雑記1 2018 3/8

先ほどこのブログの初エントリを書き終わりました。あの記事にも書きましたけどただでさえあんなに長い評論を読むことなんか全然経験ないのに、しかもその感想まで書くなんて本当に骨が折れる思いをしました。まあ望んでやったことなんですけど。

 

kansousitsu.hatenablog.com文章に無駄が本当に多いですね、構成の面でも、表現の面でも。もっと削れるところとか簡潔にできる言い回しとかたくさんあったんでしょうね。しかしそれがどうやったら可能なのかが分からない。あと終盤が駆け足極まりないですね。こういう詰めの甘さも改善していく所存です。

読み手がイメージし易いのはどんな言葉なのか。多くは語らずとも伝わること、丁寧に描写してようやく伝わること。そういうことって表現に慣れてなかったり、自分の気に入った表現ばかりで突き進んでたら見えてこないんでしょうね。そういったことが分かるように精進していかないといけませんね。

このブログはそういう文章への慣れの訓練みたいな側面もあるんですけど、一方でやっぱり触れあった表現物をしっかり理解するためにも存在してます。文字で中身のあることを書こうと思ったらやっぱりそれについてしっかり読み込んでないとできませんからね。実際この藝術とは何かは5回読みました。傍から見て多いのか少ないのかは分かりませんが、少なくとも僕にとってはこれほどの短時間で書籍をこんなに読み返すのは初めての経験でした。しかしおかげでふつうに読書をするより大分深く読み込めたんじゃないかなと思います。きっと感想を書き出そうと思ってなかったら読んでも2回くらいだったんじゃないかな。かのショーペンハウエル先生も言ってますしね。読書は数が大事なのではない、質の良い本をしっかり読むのが重要なのだ、的なことを。

このブログでは名の通り触れた作品に関する感想を色々と書いていきますが、更新頻度はそう多くはないと思います。次の記事は1週間後から一ヶ月後くらいまでには書くと思うんですけど……。最近触れた作品は「脱出と回帰」(中井 正一)と沙耶の唄ニトロプラス)なのでどちらかの感想を書くことになるやもしれません。脱出と回帰のほうはamazon kindleで無料でサクッと読めるので暇な方は是非読んでみてください。藝術とは何かと同じくらい興味深いです。一応芸術論の評論です。沙耶の唄は正直三週くらいプレイしてるし感想考察ブログも溢れかえってるので今更か……とも思うのですが、そんな打算的に書く記事を考えるようなブログでもないですしやっぱり沙耶の唄は面白かったし誰も見てないようなブログですしまあそんなこと考えるだけ時間の無駄でしょうね。

雑記は記事を書き終える度に更新するかと思います、決まりではないですけど。多分性分的にそうなるかと。

誰か記事見てくれたらいいなー。

というわけで以上雑記になります。ここまで読んでくださってありがとうございました。

 

藝術とは何か (芸術とはなにか) 著:福田恆在 (ふくだつねあり) 感想 書籍 評論

福田恆在さんの著書を読むのは初めてだったのですが、非常に意義深い評論でした。

芸術とは何であるか、その解明を「文明」と「芸術」との関係という視点から行っており、またあとがきにおいて著者は、芸術を真に語るならば「そういう角度から語る以外に方法はない」としています。

 

 

  • 芸術とは何であるか

結論から言いますと、著者のいう芸術とは、ただ一言「鑑賞」であります。芸術を鑑賞することが芸術に近付くただひとつの手段であり、そもそも「芸術とは何か」などという野暮な問いは本来すべきでない、と言うのです。

しかし、もちろん「芸術とは何かといちいち問うな」ということをひたすら叫び続けることがこの評論の内容ではありません。むしろ、真に主張したいはずの著者の考えは、あとがきになってようやく示されます。そこに至るまではただひたすらに「芸術とは何であるか」を文明との関係において語っているのです。

これは一見すると矛盾しているように思われます。芸術とは何か、と問うのは野暮な問いだとしながらも、著者は懸命にそれに答えているのです、われわれは混乱を余儀なくされます。しかし著者もそれについては言及しております。

ぼくのいいたいことは、三十枚どころか、たった一行でことたりえたでありましょう。いや芸術に関するかぎり、あらゆる入門書は無意味であります。

また、こうも言っております。

ひとつの芸術作品の美について語りあい、その感動をわけあうためにも、あらかじめこれ*1だけの地盤は設定しておく必要があるとおもっております。

 

 

つまり、著者は「鑑賞」こそが芸術であるとしながらその「鑑賞」のために「芸術」を文明との関係において語ることは必要である、と表明しております。

思えば、どうして「芸術」を「文明との関係において」明らかにすることが、どうして「芸術とは何か」に答えていることになるのでしょうか。それはまるで芯に触れていない。「芸術」の輪郭を明らかにするためにその表面をなぞっているだけにすぎません。まるで衛星のようにぐるぐると芸術という大きな概念の周りを回っているだけにすぎません。

しかしそれは不可欠な行為でもあるのです。輪郭がぼやけていてはどうして本質を知ることができましょうか。その手触りを知って初めて、本質への挑戦の道が開かれるのです。輪郭を知らずして本質を理解することは不可能であります。それは闇の中に溺れてもがいているようなものです。われわれが感ずるべきは、本質はおろかその輪郭の定義すら曖昧なまま芸術を鑑賞しているという異常事態への問題意識ではないでしょうか。

  • 本書の構成について

長くなりましたが以上はこの評論の概要であります。ここからが本題です。

 この評論は150ページほどの内容が11節の評論に分かれていて、前半は特にそれら同士は無関係で、それぞれが独立した評論であるように思われます。しかし当然後半においてそれらの節の内容はまとめられ、めでたく評論「藝術について」がその正体を露わにするという仕組みです。前半はただ淡々と点を打つのみで、基本それぞれの節が独立しているように見えるのです。それぞれの節の無関係さと言うよりは、それらがひとつの評論としてあまりに完成しているために、そう見えてしまうのです。僕は腰を据えて一冊の評論を読み取ることに関しては片手で数えるほどの経験しかないのですが、こういった作品は珍しくないのでしょうか。

閑話休題。この評論の最初の切り口は「呪術」であります。それは宗教とは違うもっと原始的で無秩序的な、古代人の信ずるものです。著者はこの「呪術」が「芸術」の親であると(直接的には主張していませんが)述べます。また彼は呪術が現代の科学や宗教研究の対象になっている事態を強く批判します。呪術は科学や宗教と切り離されるべきものだと著者は執拗に主張するのですが、その理由は後半になってようやく見えてきますが、ここではあえてそれには触れません。その前に、この評論は読者にいくつかの節をまたがせます。

まず、演戯について。呪術の目的のひとつが自然や昔の英雄と一体化し、一時的に己であることから解放されることであるとの論を置いた上で、そうした行為に含まれる「演戯」性を規定し、それを掘り下げ、芸術との関係を強固にしてゆきます。

そしてこの「演戯」こそが芸術の目的においては非常に重要であると著者は述べます。人はありのままの自分を受け入れることはできない。だから演戯をする。しかし、そうした演戯は古代ギリシアにおいてこそさかんに花開いていたが、現代においてはその芽すら見えない。繰り返しになりますが、それでも人間は演戯なくしては生きていけない。ではそういう「演戯性」は現代日本においてはどこに存在しているのか?

僕はそれはSNS「アイドル文化」にあると考えます。

 SNSやアイドル文化が従来のある分野にまで侵食しているという考えは散見されますが、それだけこれら2つが高い柔軟性とポテンシャル、そして強い影響力を持っていることの証明になるのではないでしょうか。

 

SNSの演戯性について

簡潔に先述しましたが、演戯というものは、ありのままの醜い己を許すことができず、美しさのためにかえって醜い者を演じた古代アッティカ人に源流を辿ることができる、と著者はしています。これだけでは何だか分かったような分からないような説明ですね。この理論の妥当さの説明は著書において行われておりますが、そこは重要でないので省きます。とにかくありのままの醜い自分を受け入れられない人々が別の性格をした仮面を被ることによって一時的に他の人間を演じる、それが演戯であります。

また、そういった演戯を行う人間が舞台上にいたとして、彼らを見物席で鑑賞し、そしてその仮面に感情移入し、あたかもその仮面の人物になりきることも演戯に含まれます。

著者のこの主張に拠るならば、SNSは多分に演戯性を持っていると思われてくるはずです。

例えばTwitterTwitterでの人々の振る舞いは現実での生活と同じような姿で現れてくるでしょうか?現実での生活と同じ仮面をTwitterでも被っていると言えるでしょうか?

答えは否であるはずです。

現実の生活との整合性を保つ必要があり、意識的に同じ仮面を被っている場合を除いて、彼らのほとんどは現実の生活とは違う仮面を被っているはずです。ここで言う現実の生活との整合性を保つ必要のある人々とは、例えば学生の同級生同士の繋がりのにおけるSNSだとかを指し、つまり言い換えるならば、現実の生活において自分が属する集団の延長線上に存在するSNSを指します。(最も彼らこそそういった集団専用のアカウントとは異なるアカウントを持っていて、そこで仮面を被り変えている場合が多いのですが。)

しかしもちろん上記とは異なる、真の意味でSNSでの自分も現実の生活での自分も寸分違わず同じである人も存在することは確かであります。著書の中で、キリスト教支配下の中世人が教会において生活と異なる仮面を被ることを許されたために、その時代では芸術が不必要とされていたという論説があります。このことはまさしく「演戯」が何も芸術に頼らずとも行い得る証拠であります。こういうようにSNSが現代において芸術の演戯性を受け継いでいるとしても、それに頼らずとも生活の中で異なる仮面を被ることのできる人々もいるのだと僕は仮説付けます。しかし著者が言っているように、人間は誰でも自分で仮面を被ることができるわけではありません。ほとんどの人間が被り方を教わらねば仮面を被ることすらできないのです。だからこそ少数ではありますが自分で仮面を被ることのできる人はいて、彼らはどの時代でも、意識的に生活の中で仮面を被り、演戯の欲求を満たしていたのでしょう。(最も中世の教会で仮面をかぶっていた人間こそ仮面の被り方を教わらなければ何もできない人々だったのですが。)

 

話を主軸に戻しましょう。ともかくTwitterをご覧なさってください。Instagramをご覧なさってください。現代日本において他の髄を許さぬこれらのSNSをご覧なさってください。この観点をもってそこを開いてみると何といかに現実と剥離した仮面で生きる人間の多いことか。もちろんそれは悪いことではありません。繰り返しますがそれは人として生きるために不可欠なことなのであります。

逆にだからこそFacebook等は現実との繋がりが強く現実の生活と同じ仮面を被ることが強いられる傾向が強いために衰退したのではないか、また2ch等の完全匿名で被ることのできる仮面が多様なSNSはいつまでも市民に飽きられないのではないか、とも僕には思えてくるのです。

しかしならばSNS古代ギリシアの演戯と同じ健全さをもって人々に仮面を与えているかという話にまで踏み込むと、間違いなく答えはNOになります。

著者は個性という観点からも演戯というものを規定しています。

ここに改めてギリシア悲劇のヒーローと近代劇とのヒーローを比べてごらんなさい オイディプースとノラとを。

オイディプースが英雄でありうるためには、他のなんぴともを必要としない。かれは自分に敵対する、あるいは自分を英雄として崇拝し追随してくれる相手を必要としないのです。が、ノラは自分を英雄とするために、夫のヘルメスという俗物を必要としている。このことは観客の心理に、あるいはその生理にどういう異った効果をもつでしょうか。それは大変は相違であります。

ギリシア悲劇においては、鑑賞者はまったく自由であります。かれらは個性などという小うるさいものから完全に解放されている。

著者は演戯において「個性」が評価され、また「個性」が評価や崇拝ありきでその価値を維持していることに警鐘を鳴らします。演戯は演戯をすることそのものに価値があり本質的には他者からの承認を必要としないのです。

皆まで言う必要はないでしょう。今やSNSは承認欲求を満たすツールとも言い換えられるほどです。過激な言動をして炎上する人が、ユーモアまじりに薄っぺらい人生のハウツーを語り続ける人が、ありえない出来事や略歴をでっち上げて注目を浴びようとする人がどうして他者からの承認を求めていないと言えるでしょうか。彼らは「どのような言動をしても誰からも注目されない」という仮定に立ったときも果たして同じように行動するでしょうか。もちろん言うまでもないかもしれませんが、僕はそういった行為を完全に否定したいわけではありません。他者からの承認を受けることは必要でありましょう。ただそれは真の意味で健全な演戯性をもっているとは言えないというそれだけの話です。

 

アイドル文化の演戯性について

アイドル文化もSNSと同じように演戯性をもっていると思われます。一般的に演戯とは舞台で演ずることを指しますので、その限りにおいてもアイドル文化が演戯性を持つというのは全くもって自然だと思います。

著書において演戯の行われる演劇について語られる箇所があり、そこで著者は演劇の主体は俳優でなく観客であるとした上で、ある例え話をしています。

『ピーター・パン』という童話劇のなかにティンクという子供が死ぬ場面が出てまいりますが、このときピーター・パンは観客席の子供たちにむかって、もしきみたちが妖精の存在を信じるならティンクは生きかえる、妖精がいるとおもう子供は手をたたいてくれと頼みます。子供たちはティンクを生かしたい一心で夢中になって手をたたく、これがもし映画だったらどうか。

これは演劇の映画や文学に対する優越性を示す一文であり、このように演劇は観客が主役になりうるために映画や文学に本来的には勝っているという主張です。そして中世や近代における演劇の平土間が死んだように静かになっていることを批判します。本来は舞台における演戯の主体は平土間にあるのだ、と。この点においてアイドル文化は胸を張って堂々と演戯的である、と言えるのではないでしょうか。

オタ芸、というものを皆さんはご存知でしょうか。アイドルのファンであるオタクが踊りによって激しく自己主張を行うアレであります。まさしくアレはアイドル文化において観客が主役であることを物語っているのではありませんか。ライブのアイドル文化を否定する人間は、彼ら彼女らアイドルの歌う楽曲が音楽的に洗練されていない点をあげて批判しますが、実はその行為はめっぽう的外れなのです。なぜならアイドル文化の基盤は音楽にあるのではなく、演劇にあるからだ。

また、それこそ音楽においてもオタ芸とまではゆきまでんが、「コール&レスポンス」等に代表される文化も一方で存在しています。例えば演者が演奏中にマイクを観客に向けたら観客が歌い出す、だとか、演者がステージで手を叩けば観客もビートに合わせて手を叩くだとか。しかしこれらはオタ芸に比べますとやはりどこか要素が小さく、これによって観客が主役たりえるかと問われればとても首を縦には振れません。この限りにおいてやはり音楽は音楽なのであり演劇であるアイドル文化とは異なっているのだと僕は思います。

 

 著者は上記の演戯の定義に加えて演戯において重要なことのひとつに「演戯していることに自覚的であるか」があると述べています。すなわち真に健全な演戯は、演戯をする者もそれを鑑賞する者もそれが演戯であることを分かっていて、それでも演戯として楽しんで仮面を被ることに喜びを見出していなければならないということになります。賛否両論あるかと思いますが、アイドル文化については演者も鑑賞者もそこで行われているのが「演戯」であることに自覚しているのではないか、と思います。

もう少し直接的な言い回しをさせていただきますと、アイドル文化においてそれぞれのアイドルはその「アイドルとしての仮面」をもって演戯をしているのであります。そして当然演戯する本人はそれに自覚的でしょう。重要なのは加えてさらに鑑賞者もアイドルが「アイドルとしての仮面」を被っていることに気が付いている、ということです。

もちろん僕は、少年少女がサンタクロースを信じるように鑑賞者がアイドルが仮面を被っていないと妄信している事態も一方で存在していることは受け入れます。

しかしそれはアイドル文化という大きな渦の中にある総数から比較してみれば、どんなに少ないことでしょう。

前述したように著者は中世キリスト教国において一時的に教会が芸術の代わりとなっていたと述べています。現代にあっては百も承知でしょうが、この教会が至上のものとして扱われていた時代は遥か昔に終焉を迎えています。著書においてその原因は教会の中でも特に聖職者にあるとされているのです。詳細は省きますが、中世は神という前提に立脚し、その上に聖職者を置き、更に神の意志は聖職者のみが知り得るもので、市民は直接の神の意志ではなく、聖職者を通じた神の意思しか知り得ないという状況を作りだしてしまった。これが教会の挫折の根源なのです。何故か?それは聖職者は聖ではありえず、聖の識者でしか、聖の識のある「人間」でしかあり得ないからです。

人間は堕落を性質に持つ生物であります。が、堕落を止める者こそ倫理です。

しかし中世にあってはこの倫理さえ人でしかなかった。堕落する聖職者、それを咎めるはずの腐敗した教会。これが中世の終焉であります。

中世にあってもきっと真に神の意思を教えんとする聖職者は存在したでしょう。しかし彼らは稀有すぎた。数に敗北するならば、彼らは0と同じです。水の流れが一定であるならば、その中のどんな物体も、結局は同じように流されてしまうのです。

だからアイドルは素面であると信ずる人々もまた、そういった意味において影響力を持たず、その限りでは存在しないことになるのです。

しかし、アイドル文化の演戯性は完全である、という意見には疑問を呈さずにはいられません。というのも、最近のアイドル文化にあってはリアリズムが強く侵食しているように感じられてならないからです。著書にある通り、そもそも近代ヨーロッパ芸術の衰退の要因がリアリズム、実証主義なのです。科学に代表される実証主義の発達によって、今まで演戯として楽しんでいた演戯にさえ現実性というメスを入れ、より生活らしい演戯をもとめるようになってしまった。それは科学が人間に与えたあまりの利益の多さ故に彼らがそれらを盲目にいたずらに信奉していしまったからであります。どこにあっても実証主義を振りかざし、またそれによって何かが得られるのだと誤解してしまった。

そういったことが今日のアイドル文化においても起きているのではないでしょうか。

これを完全に証明するにはアイドルの歴史をさかのぼる必要がありましょう。そしてそのためにはどの人物がアイドルであり、アイドルでないのか、その定義を定める必要があります。

アイドルという言葉は今日にあっては非常に曖昧です。30年前と現在ではその意味も少なからず変化しているでしょう。それを辞書的に定義するのは率直に申し上げますとかなり難解です。しかし、この文章の中においてのみの定義、つまり演戯性という観点からのアイドルの定義というのは、そう難しくもありません。はっきり言いましょう。アイドルとはこの文章の中において観客席で「オタ芸」の行われるコンサートを開く人物を指します。これは限定的な意味であり、そのためにきっと暴論めいて聞こえることでしょう。この定義ではオタ芸の生まれる前のアイドル、オタ芸の起こらないアイドル(特に男性アイドル)は含まれず、女性声優や二次元の実在しない人物すらもそこに含まれてしまうのです。(とは言いますが男性アイドルに関しては観客席でオタ芸こそ行われないものの、それとは違いながらも本質的には同質な、つまり横断幕でありますとかうちわでありますとかそういったグッズでもってアイドルを応援する行為は演戯性を持っているのではないかとも推測されます。)

しかし僕が上記でアイドル文化の演戯性は「オタ芸」にあるとしたならば当然その要素のないアイドルは僕の仮説の適応外になってしまいます。ですのでこの飛躍のために少々論理性が破綻している面もありますが、今回はそこに対するフォローはほとんど行わず、このように定義させてもらいます。

 

 さて、本題ですが、そういった定義の上に成り立つアイドルは果たして実証主義の目に止まることなく、つまりリアリズムの目をもって評価されることから逃れ続けられているのでしょうか。

僕はやはり大局的にはアイドル文化さえ実証主義という神に侵食されつつあると思います。しかし、一概にそうであるとも言えないのです。というよりも、元々アイドルが存在し始めたときからそれは一定の実証主義の目によって検閲されていました。そもそも、アイドル文化においての実証主義はどのようなものを指すのでしょうか。「そんな女性は現実ではあり得ない」。そういうような言葉がこの場合における実証主義の表れでしょう。しかし、これは真に実証主義でしょうか?

そもそも実証主義が芸術を侵食し始める段階の前にあっても必要最低限のリアリズムはそこに適応されていたはずです。ハムレットの劇において瀕死の人間が死の間際にあって名ぜりふを吐くなどということは実証主義の目で芸術を見る者には考えられないことでした。しかし、実証主義者でなくとも、劇中で死人が喋ることはないことや、人が空を飛べないことは当然であったのはずです。人が死の間際に名言を吐く余裕はない、ということと人が空を飛べないことはどうやって分けられるでしょうか。

いくら演劇といえど現実の因果関係の全く適応されぬ舞台であるはずはありますまい。そこには実証主義とは異なるが最低限の不文律は存在していたはずです。

アイドル文化も同じように最低限の不文律は最初から持っていた。それを実証主義と切り分けるのは、現代の目では中々困難な手段です。

しかし一方で例えば最近、握手会ならぬハグ会を開くのに防護服を着て現れたアイドルがいた、という話が存在します。これは「アイドルが男性ファンを拒否するような言動はとらない」というある種の夢への裏切りで「アイドルだって人間なんだからいくらファンといえども見知らぬ男性とハグするのは嫌なことに決まっている」という実証主義の表れになるでしょう。また今日テレビ番組に出演するアイドルもかつての「常に笑顔でみんなに愛想がいい」というようなキャラは減り、等身大の女性らしい女性のキャラクターで映っていることが増えているように感じます。やはりじわじわとではありますが実証主義の手はアイドル文化にも伸びていましょう。

 

まとめ

 

 SNS、アイドル文化と共に演戯性を強く持つ現代の一種の芸術であることは間違いないといえます。しかしどちらも完全とされるギリシア演劇とは違ってどこかに綻びをもっています。しかしそれはこれらだけの話ではありません。これまでの文学や演劇、音楽も完全な芸術ではありませんでした。完全な芸術があればそれ以外の芸術は発展しえないでしょう。ギリシア演劇が終焉を迎えたの原因は構造的なものではなく他民族の侵入による文化自体の崩壊という物理的なものでした。そういった完全な芸術が現れない限りは芸術は構造的に常に誕生と崩壊を繰り返し、文明とともに形を変えながら、移ろいゆくのでしょう。

それが良いことなのか悪いことなのか。完全なひとつの芸術ではなく、たくさんの不完全な芸術が人々の精神を紡いでゆくことは善なのか悪なのか。それはきっといつか「芸術」が終わりを迎えるまでは分からぬことでしょう。著書の言葉を借りるならばまさに「歴史をして赴くところに赴かしめよ」です。

 

 

藝術とは何か (中公文庫)

藝術とは何か (中公文庫)

 

 

 

 

*1:「これ」は、芸術を文明との関係において語ることを示します。